理不尽な病 ~アルコール依存症の夫と暮らして~

アメリカ人の夫との結婚生活15年。夫のアルコールの問題に悩まされて10年。アルコール依存症だと認識して約8年。健やかなる時も病める時も、死が二人を分かつまで、私はこうして地獄に付き合わなければならないのだろうか…? 遠い日本の親にも友達にも言えないこの苦しみを、どうかここで吐き出させて下さい。(2018年5月)

飲みの誘い

飲酒は、アルコール依存症でない普通の人達にとっては、ごく当たり前で楽しいことなのだということは、私にもよく分かっている。

だから、そういう人達からの飲みの誘いを断ることは、アルコール依存症の夫を持つ私としては、複雑な心境になる。

 

日本から来たばかりの駐在員の男の子が、仕事中、わざわざ私の席にやって来てこう言った。「Hopeさん(←私の名前)、今度XX君と、Hopeさんと一緒に飲みに行きたいねって話してるんですよ。」

 

アメリカ人の社交辞令を聞き流すことには慣れている。(アメリカ人は、日本人が思う以上に社交辞令を言うので、彼らの言う「〇〇しよう!」、「〇〇するね!」は、挨拶程度に思っている方が賢明である。)

 

でも、私より一回りも年下のこの日本人の彼は、わざわざ私がいる部屋に、そのことを言うためだけにやってきたのだ。(アメリカのオフィスは広いので、日本の会社でいうところの偉いオジサマ方が使うような個室を、私は一人で使っている。)

だから、この男の子は社交辞令などではなく、本気で飲みに誘いに来たということは明白であろう。

 

私は会社では努めて明るく振舞っているから、「私と飲んだらきっと楽しいとこの男の子に思われているんだろうなぁ・・・。」と、そんなイメージを持たせてしまったこの彼に、申し訳なく思ってしまった。

 

アルコールがあるのが当然なパーティの場で、友人や初対面の人に「私はアルコールは飲めません」と言うのと、アルコールとは関係ない場で、明らかに「飲み」に誘われた時に「私はアルコールは飲めません」と言うのとでは、気持ちの重さが違う。

 

前者の場合は、私がそこにいるのは別にアルコールを飲むことが目的ではないし、既にその場にいるわけだから、「飲めません」と躊躇せずに言える。

でも後者の場合は、「明らかにアルコールを飲むことが目的」なので、そういう楽しい気持ちで誘ってくれているのに、相手の期待を裏切ってしまうな「飲めません」という否定的なことを言うことには、なんとなく躊躇してしまうのだ。

 

この男の子に限らず、みんな、私にアルコールに関するこんなに深い事情があるだなんて、思ってもいないだろう。私のことは普通に飲める人だと思っているだろうし、夫がアルコール依存症であり、そのことで私が毎日苦しんでいるだなんて、誰もそんなことなど想像だにしていないだろう。

 

そういう事実をオープンにしていないし、「普通の人」に見られたことで、「ああ、私、普通の人に見えるんだ」と、一瞬安心してしまい、その期待に沿うために、動じる気持ちを見透かされないように、「うん、行きましょう!」とつい言ってしまった。

そして、少し心が痛んだ。

 

アメリカ人がするような社交辞令なら、私もこんなに心が痛んだりせず、サラッと返答して、悩むことなくここで終わりだっただろう。でもこの男の子は、きっと近いうちに、飲みに行く具体的な話をしに私の席にまたやって来ると思う。

 

私が「本当はアルコールを飲みたいとは思っていない」こと、そんなことを言わないまでも、「アルコールを受け付けない体だから、飲みに行っても、私は飲みませんよ」、ということ、ましてや「アルコール、嫌いなんです!」などということを正直に言えなかったことは、私に罪悪感をもたらせた。

 

「夫がアルコール依存症で・・・」と言うには、私はまだそこまで勇気が持てなかったし、そこまで個人的なことを会社の人に言う必要もないと思った。また、それを言うことによって、相手に引かれて気を遣わせてしまうことも避けたかった。

 

アルコール依存症でない私が、飲みの誘いに対してこれほど複雑な思いを抱いてしまうくらいだから、アルコール依存症の方々は、飲みの誘いに対しては、きっと私以上に複雑な思いを抱いていることだろう。そして、それを断ることもきっと簡単ではないと思う。

 

飲んではいけない体である、ということを説明しても、この病気のことを知らない人は、そこまで深刻なことだとは思ったりしないだろうし、もしかしたら気軽に飲酒を勧めてくるかも知れない。そういう誘惑と戦うことも、アルコール依存症者にとっては、避けられないジレンマだと思う。

 

もしこの男の子が、飲みの具体的な話をして来たら、期待などさせてしまうのは大変申し訳ないから、「飲みっていうより、ご飯ってことでいいですか?車だし。」とサラっと言ってみよう。そして、私がシラフでも楽しんでもらえるように、明るくその場を盛り上げよう。(昔から飲み会では、飲まないことでみんなに嫌な思いをさせないように、飲みの雰囲気に合わせて楽しく喋るという気遣い?はしていたものだ。)

 

・・・と、いろいろ考えてこんなに悩んだ挙句、これで結局具体的な話が出て来なかったら、早合点したオバチャンのたわごとだと笑って下さい。まぁそれはそれでいいのですが、「プライベートの友人ではない誰かと、付き合いで飲むということ」について、久々にいろいろと考えさせられました。

 

そして、こんなオバチャンでも一緒に飲みたいと言ってくれたことが、なんか嬉しくもあり、でも私は飲みたいとは思っていないから相手に申し訳なくもあり(それは決してこの男の子のせいではなく、私の事情のせいなのだが)、そして夫がアルコール依存症で苦しんでいるのに、私は笑顔で(その場しのぎの返答だったとしても)飲みにいくことを肯定してしまった罪悪感で、複雑な気持ちになってしまった。

 

人を魅了する「アルコールの力」って、いい意味でも悪い意味でも、悔しいけどやっぱりすごい。あいにく、私にとっては悪い意味でしかなくなってしまったけれど、大抵の人達にとっては、アルコールとは、人間関係を円滑にさせる、楽しい飲み物なのだと思う。

 

そういうことを久しぶりに感じ、「アルコールを飲むのは当たり前のことである」という価値観と、それだけアルコールの怖さがあまり世間に知られていないという現実に、益々、家族の中にアルコール依存症者がいる、ということの肩身の狭さと孤独感を感じてしまった。

 

いつか、「夫がアルコール依存症(の回復者)だから、アルコールとは関わりたくないんです。」と明るくサラっと言える日が来てくれたらいいなと思う。私の性格上、そういうことを私自身が明るく言えないうちは、問題が深刻であるということであり、問題が深刻なのに、笑顔を作って明るくそんなことは言えないのだ。

 

もし躊躇せずにそれを言うことができたなら、私自身も少しは、「アルコール依存症の家族という病」から回復してきている、という風に思ってもいいのかも知れない。

 

 

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