理不尽な病 ~アルコール依存症の夫と暮らして~

アメリカ人の夫との結婚生活15年。夫のアルコールの問題に悩まされて10年。アルコール依存症だと認識して約8年。健やかなる時も病める時も、死が二人を分かつまで、私はこうして地獄に付き合わなければならないのだろうか…? 遠い日本の親にも友達にも言えないこの苦しみを、どうかここで吐き出させて下さい。(2018年5月)

終わりの始まり

夫がアルコールとは無縁の生活を送るに伴い、私も、アルコールのことはあまり考えないようになっていった。

苦しくて、誰にも言えない想いを書き綴っていたこのブログも、苦しみが薄らいできたから、もう手に付けることもなくなっていた。

それだけ私も回復してきたのだと思います。

どんなに苦しくても、きっといつかはそれが過去のことになる。

 

夫がアルコール依存症を発症してから12年。

6年目には仕事を失い、健康を失い、信用を失い、お金を失い、夫はアルコール依存症によって、沢山のものを失った。

無職だった6年のうち、最初の3年は堕ちるだけ堕ちての地獄の日々。そして最後の3年は、緩やかな回復の日々。

そしてそれはきっと、どれも、夫には必要な時間だったんだ。

私達には沢山の苦しくてつらい日々があったけれど、徐々に普通の暮らしができるようになり、それに伴い笑顔も増え、そして、今は幸せです。

 

だから、今アルコール依存症の苦しみの最中にいる当事者の方々やそのご家族の方々にも、いつかその苦しみを乗り越えて、笑顔になれる日が来るんだ、と諦めないで希望をもって欲しいと思います。

アルコール依存症は大変な病気だけれど、決して乗り越えられない病じゃない。

 

私の夫も、またいつ再飲酒して地獄の日々に戻るかは分からない。

でも、一度乗り越えたんだから、いつかまたそうなっても、私は希望を持っていられます。

きっと大丈夫。

きっとまた、夫は立ち直れる。

願わくば、夫には一生断酒を続けて行って欲しい。

でもそれが無理なら・・・。

私は自分の経験を元に、夫を信じて、また一からやり直したいと思うし、それがまたできると思っています。

 

だから、今、苦しみの中にいる人達、貴方達もきっと大丈夫。(でも、相手を見捨て、自分のために違う生き方をしてもいい、ということも一緒に伝えたい。)

私の夫は、本当に(今でも)重度のアルコール依存症なんです。

今はただ、飲まずにいるだけで、ただ断酒を続けているだけ。

その断酒が難しいのだけど、きっかけをつかみ、断酒を続けることを辛抱強く続け、また、ご家族の方なら、それを辛抱強く見守っていくことを続けていけば、時間はかかるかも知れませんが、きっといつかは心から笑える日が来るはずです。

夫や私のこの経験が、皆様の励みになってくれたら幸いです。

 

世間のアルコール依存症への理解が進み、アルコール依存症者とそのご家族が、生きやすい世の中になることを心から願って。

 

 

 

 

人はやり直せる

本当にどん底だった。

自分たちが世間から置いてけぼりになっている感覚。苦しみを誰にも話せない辛さと孤独。酒浸りで廃人になっていた夫への失われていく信用と怒り。助けてくれなかった、唯一状況を知っていた夫の家族へのいらだち。こんなに苦しい思いをせずに、普通の暮らしができたらどんなにいいだろうと思っていた。

 

当時の私は派遣社員で、一日に5時間しか働いていなかった。そして夫は無職。

フードスタンプと呼ばれる、政府からの低所得者への食料の援助の申請をすれば、おそらく通ったと思われるのだが、私はそれをしなかった。幸い、食べ物に困るほどの貧困状態ではなかったし、そこまで落ちぶれたことはしたくないという、変なプライドのようなものもあった。

 

でも医療保険だけは、夫がアルコール依存症だからこそ尚更、いつ発生するかも分からない緊急事態に備えて絶対に必要だった。言わずもがな、アメリカの医療費は高額なのだ。しかしながら、派遣社員だった私は会社から医療保険を受けることができず、代わりに、会社で医療保険をもらえない人のための政府の保険を申請し、収入に応じた保険料を払って、その医療保険を持っていた。これは毎年申請をするのだが、ある年には、申請したら低所得のカテゴリーに入れられ、そこから更に別のオフィスに回され、保険料を払わずに医療保険をもらっていた年もあった。

 

娘の学校のカフェテリアのランチ代もそう。低所得だったので、割引された金額を払っていたのだが、保険料が無料だった年は、娘のランチ代も無料だった。

 

いい学区の、まあまあ大きな家に住んでいた私達家族が、まさかそんな風に政府の援助に頼った生活をしていただなんて、傍からは誰も想像だにしなかっただろう。

 

夫が無職というのは、こんなにも家族の生活に大きな影響を及ぼすのだ。夫がアルコール依存症というだけでも苦しくて心が病んでしまうのに、低所得者として、アメリカの貧困層が受けているような政府の援助を受けなければならないことも、なんだか惨めだった。でも、当時はそうするしかなかった。廃人で機能しない夫に代わり、それらの手続きは全て私が一人で行った。

 

そしてその廃人だった夫は、今では社会復帰をし、仕事を始めてこの4ケ月の間に、employee of the month(その月に一番会社に貢献した社員)に2回連続で選ばれ、頑張って働いている。あの頃派遣だった私も転職し、今は正社員として働いている。

 

かつて政府の援助を受けていた私達は、今では政府の援助に頼ることなく、自分達の力だけで生活している。ごく当たり前のことなのだが、このように健康で普通の暮らしができることこそが、人が普段気付くことのない、失って初めて見えてくる、普通である幸せなのだと思っている。

 

 

 

別れなかった理由

それにしても、私も頑固というか、我慢強いというか、よくここまで耐え切ったと自分でも思います。

 

酔っていない夫は、頼もしくて一緒にいて気がラクだった。だから、アルコールさえ飲まず、普通の夫のように働いてくれていたら、平和で幸せに暮らせると分かっていた。

だから地獄の日々があっても、どんなに人から別居、離婚を勧められても、夫が断酒さえしてくれれば全てがうまくいくと信じて必死だったのだと思います。

 

あとは、やはり共依存で私も病んでいたからでしょうね。だから、きっとどこかで正常な判断ができていなかったのかも知れません。

 

あの頃の私に何か言えるとしたら、「もうあの夫のことは見放して、自分の幸せを考えていいんだよ」ということ。そして、「でも自分の幸せを考えていたから、あの夫を見放せなかったんだね」ということ。そんな矛盾した気持ちですが、今のこの状況を考えると、諦めないで良かったと思います。

 

だから、夫が職を失ったあの頃の私達に言いたい。

「これからどんどん堕ちて行って、もっと大変になるけど、いつか終わりが来るから大丈夫。長い時間がかかるけど、いつか報われるから大丈夫。」

 

当時は今の状況は全く見えてこなかった。だから、ただただ、苦しかった。