せつない想い
私の夫はよく嘘をつく。
正確に言うと、アルコール依存症という病気がつかせる嘘のことであり、飲んでいるのに「飲んでない」という嘘のことである。
それが嘘だということは一目瞭然なのに、何でこう、何度も何度も繰り返し分かりやすい嘘をつき続けるのだろうか。その嘘でこの私を騙せるわけがないのに、夫は懲りもせず、毎回「飲んでない」と飲酒したことを否定する。
仮に、たとえ最初は私を騙せたとしても、飲むにつれて酔いが顕著になっていき、いづれはバレるのだから、どうせ飲んでいるなら自分の口から「飲んだ」と告白された方が私の気持ちはまだ平静でいられる。そのことを夫に訴え続けて早や数年、最近になってやっと夫は、「飲んでない、と嘘をつくより、正直に飲んだことを話した方がいい」ということを学んできたようだ。
今の夫の小さな目標。
『嘘をつかないこと』
「飲まないこと」ではなく、飲んでしまったことを前提とした、「飲んでいない、という嘘をつかないこと」という目標が、夫の病気の、今の過酷な現状を物語っているようだ。
AAに行っているからといって、夫の飲酒はそう簡単には止まらないのだ。
夫はこの「嘘をつかない」という誓いをかみしめるように私に訴えかけ、そして私はそれを「そうだね」と静かに聞く。夫の言うことをいちいち真剣に受け止めることは、もうとっくにやめている。いつかまた嘘をつかれた時に私の心が傷つかないように、私は感情を抑えるということで自己防衛している。
また、飲んでいる最中に夫は、「今のボトルが終わったら、もう次のボトルが買えないように、車の鍵と財布を預かっていて!」と決意を固めて私に協力を求める時がある。
昔はそれで良かれと思って、頼まれるがまま預かっていたものだが、結局泥酔時に「お前が隠した!」と理不尽な言いがかりをつけられるのは容易に想像できるから、酔ってる最中の夫の提案である、「夫の持ち物を預かるということ」に対しての私の返答は、「No」である。(但し、シラフの時の頼みであれば、これに限らない。)
車の鍵と財布を持っているが故にアルコールを買いに行ってしまったのなら、それはもう仕方ない。車の鍵がなかったら歩いて買いに行くだけだし、財布がなかったのなら、最悪盗んででも手に入れることはできるのである。(幸い、そのようなことはまだ一度もないのだが。)だから、夫の持ち物を預かることに意味があるとは思っていない。むしろ、預かったことにより生じるトラブルを避けるために、私は酔っぱらった時の夫の話は聞かないようにしている。
「嘘をつかないこと」という決意や、「持ち物を預かってもらう」という提案。
ああ、夫も飲酒をやめたくてもやめられなくて苦しんでいるんだ・・・と、少しせつなくなる。
夫なりに、今の自分に何ができるのか、アルコールでダメージを受けた脳を駆使し、一生懸命に模索しているようだ。それが哀れで悲しくもあり、また愛おしくもある。
アルコール依存症に関わるといろんな感情が入り乱れ、愛と憎しみでいっぱいになる。
愛と憎しみは紙一重という言葉があるが、本当にそうなのだとリアルに実感しています。